師の教えと、響く剣戟
著者:月夜見幾望


それからしばらくして、愛用の竹刀を片手に竜儀も家を後にした。

道場へは、竹林の合間を縫うようにしてつくられている長い石段を昇っていくことになる。
通称、“一度上ったら地獄が視える階段 ”として畏怖されているこの石段は全九百段で構成されている。
普通の人は七百を越えたあたりで足の疲労が臨界点に達するようで、遥か山頂にそびえる道場を霞んだ目で見上げる羽目になり、全体的に評価してかなりハードルが高い。
竜儀も最初の頃は汗まみれになりながら、それでも歯をくいしばって上ったものだった。

上るペースを適度に調節しつつ、九百段を踏破して道場に入る。
広い内部は隅々まで掃除がゆきとどいており、かすかな和風の匂いと落ち着いた空気で満たされている。
天井に備えられた天窓から射し込んだ陽光が、道場の真ん中に座している初老の老人の横顔を神秘的に映している。
竜儀が一歩中に踏み入れると、老人はゆっくりと瞼を開いた。

「おはようございます、師匠。ずいぶん長い間、顔を出せなくて申し訳ありませんでした」
「おお、竜儀か。いいや、構わんよ。人は皆、各々の道を歩むもの。他者に強制されず、また他者に依存せず、真に自らが見出した道をな。おぬしが学園の部において常に高みを目指して日々精進していることは、風の便りで知っておる。おそらく、前回ここへ来た時よりも一回りも二回りも強くなっておるだろう。おぬしの精悍な顔つきと立ち振る舞いは前回の比ではない」

重みのある口調は、現道場主の威厳をまったく損なっていない。
野生の肉食動物でさえ異怖するような殺気を纏って、壱時雨(いちしぐれ)十段は立ちあがった。

「どうだ、久々に儂と打ち合ってみるか? 先に言うておくが今まで儂はおぬしに合わせて手を抜いておったが、今日は本物の剣術を披露してやろう。もし儂から一本でも取れたら、その時にはさらなる高みへの道を示してやろう」

そんなの答えるまでもない。

竜儀は、無言で竹刀を正眼に構えた。
日々、体内に蓄積される葛藤や雑念、それらすべてを斬り払うに足る血液の躍動、高揚感が全身を駆け巡る。
心拍音がこれからの死闘を予期して高速の旋律を紡ぎ出す。自身の限界を超えた存在を目前にして、改めて竜儀は武者震いした。

「うむ、それでこそ強者の証。では、ゆくぞッ!」



 
師の斬撃が迫る。

空ごと断ち切るような一撃は、一太刀受けるだけでも懊殺の威力にして余りある。
奔る竹刀が、前よりも圧倒的な速度と破壊力を伴って振り下ろされる。
剣道をあまり知らない一般人からすれば、思わず瞠目せずにはいられないほどの白壁の斬り。

だが、そんな“初見殺し”に翻弄される竜儀ではなかった。
いくら変則的で鋭い太刀だろうが、そのすべては基礎的な剣道の基盤の上に成り立っている。
今朝、雹李と言葉を交わしたように、オリジナルといえど土台を基につくられているからだ。
そして、基盤の延長線である以上、そこには相手の呼吸、視線、重心の位置、指の関節の動き、竹刀の角度など、ざっと十種類程度の情報が含まれている。
動体視力に長けた竜儀は、己の長所を生かしていかに多くの情報を読み取れるかに重点をおいて、自分なりの剣道を完成させてきた。

その結果だろう。
竜儀の竹刀は師の斬撃を完全に防ぎきっていた。

静謐な空気を根底から揺るがす剣戟音が道場に鳴り響く。

そのまま間断なく繰り出される追撃をも絶妙なフットワークと守式の構えで捌き切る。
傍から見ると竜儀が防戦一方に追い詰められているようにみえるが、実はそうではない。
剣道は瞬発的な判断力や集中力もさることながら、一太刀をいかに無駄なく素早く打ち込めるかも要求される。
壱時雨十段も、実戦を幾度も積んだ猛者であるが、その動きすべてが完璧だとは限らない。

竜儀は、度重なる連撃の中にわずかに浅い一撃を見つけ、守式から攻式の構えに切り替えた。
振り切った竹刀を構えなおすコンマの隙をついた無謬の突き。
いかなる動作でも回避することはかなわず、防御不可能な竜儀の突きは完全に相手の胸元に当たるだろう。
……もちろん、相手が壱時雨十段でなければの話だが。

「なッ!?」


竜儀を危地から救ったのは、氷のような冷たい殺気。
およそ普通の人間では決して持ち得ていないであろう負の感情。


師の体を捉えたはずの突きは、だが虚しく空を破り、とっさに半歩引いた鼻先を陽炎のような竹刀が通過していく。

「……」

間合いを離し、再び対峙するわずかの時間に黙考する。


本来ありえないはずの動き。人の領域を超える神域の歩法。
竜儀の目に映ったのはそうとしか表現しようのない“風”だった。


竜儀の放った突きは、相手が完全に竹刀を振り切り、体勢の初期化つまりは受け止めることができないという点においては正に必殺というべき技だった。
だが、壱時雨十段のように“突きが来ると事前に把握しており、振り切った体勢をも回避の予備動作としていた”のなら、それは別次元の話に転化する。
そもそも突きは速度とパワーにおいては袈裟斬りをはるかに凌駕するが、ただ一点に狙いを定めるため攻撃予兆さえ感じ取れれば回避は容易い。

壱時雨十段は、過去の竜儀との対戦記憶から竜儀の思考、肉体の緊張、守式から攻式への連続技(コンボ)、その後に生じる隙のすべてを読み切っていたのだ。
 
それは明らかに剣道の埒外にある戦略だった。
人が歴史の中に置き去りにし、次第に埋没していった古の遺産。
戦国時代、または幾度となく繰り返された戦乱の世のなかで、編み出された神技の数々のうちの一つ。

「どうやら悟ったようじゃな」
「はい。師匠がおっしゃられた高みというのは……」
「如何にも。幾人の戦の猛者たちが勝つために振るった剣技。儂の家系ではそれらを代々受け継いでおる。言うてみれば、儂は現代の武将といったところじゃ。勝利に固執し、己の利益に固執し、揺るがぬ強靭な意志と知恵で覇を競う策略家。血塗られた暗き戦場を照らす狂気の狩人。竜儀よ、故に儂からの試練は一つ」


───ならば問うだけ。


武勲の誉れをその刃に託した彼らを越えられるか?
彼らに挑む覚悟があるか?


「儂に内胞された先人の記憶を斬り伏せてみせよ!」


───なら応えるのみ。


二人は同時に床を蹴り、熾烈なる“戦”の第二幕があけた……



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